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大友亀太郎

大友亀太郎(おおともかめたろう)は、1834(天保5)年に神奈川県小田原で生まれ、21歳の時「人の一生は、金銀財宝(きんぎんざいほう)に富めるにあらず、積善(せきぜん)の道に如(し)かず」と考えました。
亀太郎は、江戸幕府から1866(慶応2)年に蝦夷(えぞ)地開墾掛を命ぜられました。
石狩の原野を調査し、伏古川のほとり(札幌村郷土記念館付近)で雄大な御手作場(おてさくば:模範農場)の開拓に着手しました。
田畑の開墾に先立って、当時最高の測量器を駆使し、約4kmの用水路(大友堀)や道路、橋など生活基盤の整備を行い、移住者に人里としての安心感を与え、農業活動を養成して農民としての自活の方法を開きました。

大友亀太郎
(札幌村郷土記念館)

これが、後に札幌市を東西に分ける創成川の土台となり、札幌中心部へ物資を運ぶルートとなる「大友堀」です。
札幌村(現在の東区)の始まりで、明治2年北海道開拓のために創設された行政機関「開拓使(かいたくし)」の先駆け的な役割を果たしました。
明治3年、亀太郎は北海道を去りますが、亀太郎の報徳思想(ほうとくしそう)はその後も農民に引き継がれ、農業も穀物から果樹栽培をへて、玉ねぎ栽培へと移行し、我が国の玉ねぎ栽培の先進地となり、元村の大農郷づくりは順調に進みました。

大友堀
(国土交通省北海道開発局)
明治4年頃の大友堀
(北海道大学附属図書館蔵)

紙芝居
「わたしたちの郷土の偉人 大友亀太郎」new

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